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写経会

 四誓偈・発願文・一枚起請文・般若心経他の写経ができます。
毎月第1・第3水曜日 午前10時〜12時

 3月18日で64回目の写経会になります。2009年度は、毎月第一・第三水曜日の午前10時から12時までの時間帯で行っています。会費は1年間で1000円。写経の紙代にあてています。紙は、何枚でももらえます。筆でも、ボールペンでも、自分の書きやすい用具で取り組むことを大切にして、続けてきました。現在登録の会員は20名。毎回十数人の参加者があります。
 10時から住職の講話、全員で読経の後写経、11時半頃より各人が家で行った写経も含めて、納経を行います。そして、お茶を飲みながらの座談をして楽しくすすめています。どうぞ気軽においで下さい。

第99回 写経会 11月3日

 参加者 8名

 10月30日の第三回大念仏会で納経を済ませ、今日からまた一年間の写経の積み重ねが開始されました。次回は100回目となります。記念になることをしようと、とりあえず、いつも持ち寄って食べているお昼を、次回は、「うなぎ」でも出前をしてもらって食べようかと話し合いました。いつも、お昼は、写経の時ほど大声で笑うことはないというくらい、笑い合っています。それは、堀江さんが面白いからに尽きると思うのですが…。ほんとに月二回、心に灯がともり、みんなが明るく元気になれる瞬間です。
 今日の私の講話も、40分間、心に念仏の灯りをともそうというお話。中野善英上人の下記の言葉をいただいてお話をまとめました。

 「火の消えている火鉢へは  人はよらぬ
  火のおこっている火鉢へは  自然に人がよる
  火のおこっておらぬ店は  人をひきつけぬ。
  火のおこっている企業 家庭は  どんなに小さくとも
  まねかなくとも人がよる。
  火の消えている人間が多い。
  念仏の火をおこせ」

11月14日、15日とお説教にでます。しばらく。集中して原稿を練り上げたいと思います。


第96回 写経会 9月15日

 参加者 12名

 この頃は、その日のお話を、その日の朝から、写経の始まる直前までにまとめるという綱渡りをしています。朝起きてから、さて、今日の写経では、何を話すことにしようかと…。そして、「一味誌」中野善英上人の言葉をさがします。ぴったりとしたものが見つかる場合と、時間切れで見つからない場合があります。見つからなかったときは、自分の言葉だけで話を構成します。

 見つかった場合は、善英上人の言葉を印刷し、それを読み合わせながら、今日私が話そうとしていたことにからめて、解説し、話を構成していきます。ほとんどがぶっつけ本番の話になります。とても勉強になりますが、考えながら語りますから、重複があったり、くどくなったりと聞いている側にとっては、しんどい時間になっている場合も多々あります。私の修行のためとお許しをいただいています。

今日は、ぴったりの言葉が見つかりました。

「足袋は 表よりも、裏の白いのが奥ゆかしい。
 人間も裏をひっくりかえしてみて、表よりも裏の白いのが、奥ゆかしい。」
 それ以上 内のキレイなのは もっと 自分で履き心地がいい。」

関谷上人はこのことに触れながら、善悪上人の言葉、

「信仰をやっている人は多いが、信仰になっている人はすくない」を語っておられます。「真の念仏信仰は、日々の生活、その人の人格に輝きがある…」「信仰になって」くるようであらねばならないのだと。
 世にボランティアをやっている人は多いが、ボランティアになっている人はすくないとも受け止めて、日々の活動の糧にしていきたいと思います。

第90回 写経会 5月19日

 参加者 10名

 今日の法話は、中野善英上人遺著「生活線上の宗教」より「中身が肝心」のお話を使わせていただきました。私たちは、仏様の智慧と慈悲の光明を常にいただいておりながら、自分に執着してなかなか光明を受け入れることができません。ただ南無阿弥陀仏と称えることのみによって、光明を受け止めることができるのです。

「茶碗蒸しが上がって フタをとって見たら 中は空ッポ。 
こんな滑稽な事はない。人生も空ッポで蒸していたり、折角蒸しても
中が半蒸せで、お客さまの 笑い者になるような お粗末な人間が多い。
喜んで頭から喰っていただける 人間にならねばならぬー。」

 仏様のみ心をわが心として、すべてのものがつながり生かされている、その中にこの私もある天地は一心、一体、一生命として活動していると捉えられるように、南無阿弥陀仏と称えていきたいものです。

第87回 写経会 4月7日

 参加者 16名

 法話は、中野善英上人遺著「一味哲学」より、取り上げさせてもらいました。

「大きく撞けば、大きく鳴る 小さく撞けば 小さく鳴る 目に見えぬけれども
鐘の中には無限に「妙音」が蔵れている だから撞けば無限に音が出る
特に肚の空っぽの時に 涼しい音が出る 何かゴタゴタと肚の中に一杯 持っている時
百分の一も鳴らぬ 空っぽとは すべて大自然の生命にまかして 「空」になっていることです」

 自分の心や体を空っぽにするとき、いい音が出る。空っぽになるとは、大自然の生命にまかせることだということですが、どうやったら空っぽになれるのでしょうか。
 やはり念仏です。念仏の念は、今の心と書きます。昨日までの自分のこだわりをなくす。自分のとらわれてきたありとあらゆるものから自由になる。そして、過去にこだわらず今を生きようとするとき、空っぽの心が誕生するのではないでしようか。
 南無阿弥陀仏と称えるとき、大自然の生命と一体となって、私の心と体が一つになっていく、心が体なのか、体が心なのか…。これが空っぽという状態ではないでしようか。
 無心に写経に取り組むことも、空っぽの状態を作り出してくれるかもしれません。



第86回 写経会 3月17日

 参加者、12名

 今日はお葬式の出棺回向、斎場回向が重なってきたため、10時からの法話が出来ませんでした。読経は堀江さんが準備をしてスムーズにすすめてくれました。こんな時、本当に助かります。行事が滞りなく実施できるのですから。
 納経の時間には間に合いました。納経後、少し時間が取れましたので法話の代わりに本の紹介をさせていただきました。紹介した本は、町田宗鳳著「法然を語る」上・下 NHKこころの時代。今年度4月から3月まで、ひと月に1回、教育テレビで第三日曜日 午前5時~6時。再放送は、翌週月曜日の午後2時~3時まで町田先生が直接語って見えます。
 3月21日の午前5時からは、最終回「日々新た」のお話です。是非、皆さん、この放送を見てください。

第82回 写経会 1月20日

 参加者は、12名でした。この日は、20日のブログにも書かせていただいたように、写経会後に松家さんの91歳の誕生会も予定していました。法話では、中野善英上人遺墨集「無量寿」より、「肚(はら)を洗え」

「硯は いつも墨でヨゴレテいるのが あたりまえだとおもっている。
それでも 時々洗わぬと 墨汁まで腐る。肚を洗え 肚を。
肚が腐っていたら 香気のある仕事は出来ぬ。字の出来は上等でも
書かれた 墨に艶がなく 腐臭があったら 人は近寄らぬ。
人の見えざるところに「清らかさ」を持たねばいかぬ。」

 硯に墨を残しておくと乾いてしまってとれなくなったり、夏にはすぐに腐ってしまい嫌な臭いを発してきたりします。気を付けていても、ついつい急いでいると、ほったらかしにしてしまいます。いま使っている硯も、周りに墨が固まってきてしまいました。
 1月2日に鳳来寺山にお参りした時、表参道にある硯を販売しているお店に立ち寄りました。応対してくれたご主人…「私が生きている限り、いつでも摺りなおしますよ。30分ほどでできますから、ついでのときに持ってきてください。釘などで取ろうとすると硯を割ってしまうことにもなりますから…」と。傍で奥さんが「使った後にティシュで拭っておくだけでも違うんですけどもね…」と声をかけてくれました。
 硯に対する思い、仕事とはいえ、そのことに打ち込む人の声を聞かせていただいたような思いです。
 正月以来、湯を使って墨をすりつつ、すぐに拭っておくようにしたところ、これまでたまっていた周辺の墨の塊も取れてきて、反対に、釘で傷つけた跡だけが、めだってきました。
 人の目を気にするという飾る心が、私たちには拭いきれません。法然上人は、真の心を妨げるのは、この飾る心だといわれました。中野上人の、肚を洗って、人の見ていないところで「清らかさ」を保てという教えも、このことを言っているのだと思います。真の心、清らかさを保ったお念仏を目指したいものです。



第81回 写経会 1月4日

 新しい年を迎えて最初の写経会、今日は、小学校五年生の児童も参加してくれて、総勢16名の参加者がありました。それぞれの行事への参加者を倍増していくことを掲げた今年の目標に向けて、さい先のよい幕開けとなりました。
 法話は、中野善英上人遺著「生の神秘」「死の神秘」の扉より、

「消えている電燈も スイッチをひねれば パァッとつくー
 ついた電灯も もう一つ ひねるとパァッと消える。
 一つ電灯で光ったり 消えたりする。
 不思議じゃないかー 
 不思議はない。電気に感応すればつき、 電流から絶縁すれば消える。
 人間も天地大生命と交流すれば輝きー 自ら退散忌避すれば生気を失う。」

 今朝、表に出てみると、裸木となった山桜、欅、櫟、公孫樹の木々がシンとと静まり返って立っています。その厳かなる姿の静かさに、「静かという音がしたように感じたのです」、「それはピアニシモの音なのではありません」、「音ではない、しかし音なのだと思えるものなのです」
 それは、聞こえない音を見たのだと思います。裸木の連なりの中に、音を見たのだと思います。こんどは、見えないものを聞いてみたいと思います。今、裸木の中で、見えないけれども確実に動いている「いのち」を刻める音を…。
 文章にしてしまうと、こんな表現にしかならないのですが、むにゃむにゃとしゃべったことは、今朝の体験のこんなことだったのです。

 それにしても、祖父江での親切なお父さんとの出会いも不思議でした。銀杏洗い機を求めて、車を走らせていた私たちの前に、ふっと現れたようなお父さん。祖父江にいって初めて声をかけさせていただいた方が、電話をしてくれて、お店を紹介してくれて、留守だとわかると10分かけて、「後についておいで、暇だから案内してやる」と、お正月に私たちを連れて行ってくれました。
 見も知らない、初めて会った私たちへの無償の親切。このお父さんからいただいた「おかげ」を、私たちは一体どうやってお返ししていけばいいのでしょうか。一つには、私たちもお父さんのように行動できる人間になろうということだと思います。
 お父さんは、私たちの目の前にあらわれてくれました、同様に、私たちが、日々頂戴している、見えない、聞こえてこない天地の恵み。それに気づき、感じ、応えることのできる生き方を求めていく必要があると思います。

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本堂にて