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念仏会

 月1回は、御本尊阿弥陀様の前で、心をしずめて、木魚念仏をしようと取り組んできました。
 2009年度は、毎月第二水曜日の夜7時半~9時の時間帯で実施しています。本堂をローソクの灯りだけにしてお念仏をとなえ続け、終わった後には、なんともいえない充実感、感動をいただけるのです。
 「心の中に念仏の井戸を掘ろう。掘っていただこう・・・」という思いで、南無阿弥陀仏と称えています。念仏をお称えすれば、死ぬことにも、生きることにも、何のわずらいもなくなる・・・という法然上人のお言葉を体験したいものだと願いつつ励んでいます。毎回6~8名が参加。

第40回 念仏会(1月12日)

参加者 6名

 今年最初の念仏会、法話に使ったのは、
「手紙~親愛なる子どもたちへ~」原作詩、不詳 作曲、樋口了一。

「…あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように、私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい。あなたが生まれてくれたことで、私が受けた多くの喜びと、あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい。私の子供たちへ、愛する子供たちへ。」で終わる歌です。みんなで聞きました。

 こんな私たちの気持ちを、しっかりと私たちの子供たちに伝えきっていきたい。そして、私たちの気持ちをきちんとうけとめてくれるような子供たちに育ってほしい。それが、私たちが生きてきたあかしであり、私たちが残していかなくてはならない原点なのではないか。

 4月発足にむけて、慶蔵院の「てらこや塾」にもう一つの教室を準備していきたい。おじいさん、おばあさんの教室。午前10時から12時までの間に、お念仏をして、認知症予防の計算練習や書き取りをして、健康体操をして、手作業をして、この手紙の曲をかけて、茶がゆを食べて終わる教室です。

第39回 念仏会(12月8日)

参加者 7名

今日は、新しい参加者も加わって、7名の参加。
 法話は、12月4日の成道会と子ども会のジョイントによる法要がとてもよかったこと。こうやって伝統は次の世代の心の中に受け継がれて行くのではないかと思える法要になったとまとめました。
 12月7日には、2時から8時まで、NHKの「ゆうどきネット」のテレビ取材がありました。記者とディレクターとカメラマン2名の計4名。「てらこや塾」で学んでいる子どもたちの様子から、保護者の感想など、幅広い取材していってくれました。
「来てよかった。ここには、コミュニティーがある」と感想を述べて見えました。
 8日には、香芝にあるお寺の成道会と子ども会の様子を見せてもらいに行って来ました。4日に、見学に来て下さったおかげです。
 伊藤先生が、インタビューの中で、「なかなか若い時分は、仏様がありがたいなどと思ったことがなかった」と表現すると、Kちゃんが叫びました「ほんなことあらへんのに」と。どうやら金魚をお念仏で助けることが出来たことが心に残っているようです。
 


第36回 念仏会(9月8日)

参加者 7名

 8月は、お休みの定例行事も9月になって復活。今日は、念仏会、新しい参加者も独り迎えて7時半から開始。お説教では、中野善英上人「生活線上の宗教」より、「いつも幸福」をとりあげました。

「人間も干し大根のように、洗って干されて五十年、少々シワがよったころ
 樽の中へ漬け込まれて 重石でキュウキュウおされる。
 そしてようやく味が出てくると、初めて取り出されて、切り刻まれ
 味の素ヶ醤油をかけてそれでどうやら食べていただける。
 でも かたかったり 臭かったり
 まだ ほめ者にはならぬ」

 善英上人は、『いつも幸福、不幸が幸福』と諭されています。自分にとって思うようにならないことがあっても、愚痴をいいたくなっても、たとえそれが不幸のように感じられても、その不幸は、やがて幸福の肥やしになっているもの。そう思って生きると、すべてが『いつも幸福』と受け入れられるように変わってくるのです。




第32回 念仏会(5月12日)

参加者 9名

 今回の念仏会には、お念仏の最中に、三昧琴・チべタンベル・チべタンボール・筒・ゴングを叩いてもらいました。お念仏は、最初は木魚をつかわずに、なーむーあーみーだーぶー、と称えながら音を出してもらいました。これを10分。次に倍の長さで、なーーむーーあーーみーーだーーぶーー、と称えながら音を出してもらい、これを10分。次に、大念仏を10分、残りの時間で木魚念仏をしました。

 終わった後に、参加者に感想を聞きました。
 「お念仏をしているときに、次の音を待っている自分があった」
 「音がするのが、邪魔にならなかった」
 「今日のお念仏では、自分の知っているご先祖が全部出てきた」
 「念仏と音とに何も違和感がなかった。よかったと思う」
 「もっと長く続けていたかった。リズムが何回か変わっていったので…」
 「はじめての参加でしたが、よい経験が出来ました」
 「音と念仏、よく合うと思う」
 「音に集中していくため、雑念が消えていくようだ」
 「木魚がない中での念仏と音がとてもよくて、別世界に入るようだった」
 「青い海のような、波のない海が斜面を登っていくような情景が見えた」

 はじめての試みでしたが、これからも続けてみたいと思います。音が出ることが気になるというよりは、音が違和感なく受け入れられ、しかも音が体の中に入ってくるように思いました。



第31回 念仏会(3月10日)

参加者 8名

 法話 中野善英上人遺著 「生活線上の宗教」より「先ず与えよ」

「スポイトは 吐き出す力で 吸い込む。
 与え切って空になれば 自然に内へ入ってくる。
 肚に一杯持っているくせに 欲張って 吸いこもうとしても入らぬ。
 少しでも吐き出さねば 少しでも入らぬ。
 どんなに欲張っても 自分の腹の大きさしか入らぬ。
 取ることを考える前に 先ず与えよ。
 宗教は与えることーーーだ。」

 同じ高校の先輩教員であったかたが、在家から佛教大学の通信教育で僧侶の資格をとられ、さらに布教師養成講座を三年間済まされて、このほど知恩院の布教師に任命されました。

 たまたま、今回の研修会でご一緒するご縁をいただきました。「どうして僧侶の道へ」とお尋ねすると、「自分のクラスの生徒が大量に退学となり、それを守ってやることができなかったことを悔い、学校を変わったものの、そこでも生徒の心をつかむことが出来ず、もはや宗教しかないのではないかと、生徒への懺悔の気持ちと希望の灯りを求めて僧侶の道をえらばれたということです。
 そして、何かを語れる僧侶にと布教師をめざされたのです。ご母堂の実家は、真宗所でお念仏が盛ん。お念仏を大切にする浄土宗の僧侶をめざしておられるとのことです。

 これまでの自分を空っぽにして、そこに新しいお念仏の道を吸収されようとしておられます。素晴らしい法を説き、法を施す和尚さんになられることまちがいありません。
 念仏は明るくなくてはなりません。暗いはずがないのです。現当二世において私たちを救い、導いてくれるお念仏は、私たちが真実に生まれ行く希望そのものです。明るく元気にお念仏をお称えしましょう。



第30回 念仏会(2月10日)

 参加者11名。今日は愛知県から、昨年の大念仏にもきてくださったT上人が来て下さって、ご一緒にお念仏に入っていただくことができました。終わってから最後に、お話を聞かせていただきました。T上人は、念仏の求道者で、毎日目標を決めてお念仏の数を取りながら称え続けてみえる上人です。

「お念仏をこのように定期的に続けているところは愛知県でも1か所か、2か所くらいで、探せばまだあるのかもしれませんが、少ないです。ですから、慶蔵院で行われているお念仏は貴重なことです。そんなお念仏の場所には、どこにでもいって、お念仏をしようと思っています」

「慶蔵院のお念仏は、木魚がそろわなくても気にすることなく、それぞれが自分のお念仏を自分流におおらかに、のびのびと、大きな声で称えています。大念仏から来ることなのかもしれませんが、自由で、明るくて、慶蔵院流でいいですね」と言ってくださいました。

 今日の法話は、先日の布教師養成講座で行った一席、法然上人が人それぞれに応じたお念仏の説き方をされたのは、私たちがお念仏を続けることができやすいように説いてくださったもの。一声のお念仏でも、阿弥陀様のお誓いによって、往生は、間違いなしと定まった私たちではあります。

 救いは、阿弥陀様の私たちへの働きかけによって実現するのであり、自分の念仏の力で救われていくのではない事実。そのことに確信がもてるようになり、お念仏に対する深い信仰が溢れ出てくるところまで進むと、私たちの生活そのものに大きな変化が生まれてくる。
 お念仏は、私が称えているのだが、それは阿弥陀様に導かれて、お力を得て、称えさせていただいているのだという実感。お念仏に生かされていく生活が実現されてくる。自分が救われるのは、来世だけでなく、来世につながる現世から始まっていくことが実感できるようになる。これがお念仏を続けていく大切な意味です。

 そのことを法然上人は、それぞれの人が、それぞれの方法でお念仏をつづけられるように、ぬるい湯が好きな人には、ぬるい湯を。熱い湯が好きな人には熱い湯を与えてくれるような、お念仏の教化をして下さったのです。

第29回 念仏会(1月13日)

 参加者は、初めて参加してくれた方も含めて7名。
法話では、中野善英上人の「信者へのお便り」より、次のものを取り上げました。

「鶴は 自分で自分の 首が長いとは思っておりませぬ
 わたくしたちも 自分で自分の悪いところへは 気がつかぬものです
 また 自分のいいところも忘れている
 人間は 自分については近視眼です」

 なかなか自分の悪い所、弱点、弱さを自覚することは難しいものです。素直に、ありのままに、人目を意識することなく自分がだせるようになれば、かなり正確に自分がわかるようになってくると思ウのですが…。
 浄土宗は、自省の宗教といえます。つねに自分を振り返り、省みつつ、自分のあるべき道、あるべき姿を追い求めていく生き方が大切にされます。求めても、なかなか求めきれない、求めたことが達成できない、そこに自分の弱さや弱点の自覚も生まれてくるのだと思います。
 この自覚との関連において、お念仏があるように思います。お念仏を称えていると自分の弱点が自覚されてくる。そして自分の弱点を素直に表に出せるようになってくる。
 それが何故なのか…。
 おそらく総てを見通しておられる阿弥陀仏の前で、自分を飾ろうとしてもどうしようもない、自分は自分のままに、生かされており、ありのままでいいのだという思いが湧いてくるように思います。

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